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about daily life , just about photograph. 日常のこと。つまり写真のこと。


2016.01.05

letter

他者に向けて放つ程の言葉を僕は持ち合せてはいないから

自分に向けての言葉を綴る。

自分に向けて綴った言葉がもしも誰かに触れたり届いたら

多分それはその人への言葉でも在るのかも知れない。


この身から外へと放たれたものは、譬え自身に向けたものであっても、きっと自由なのだ。

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勿論それは逆も然り。

自分に向けられた言葉では無くても、何かを重ね自分に向けられたと感じてみたり思ってみたり。

人と謂うのは勝手なものだから、好意的に受け取ってみたり、根拠の無い敵意を抱いてみたり。

でもどうせなら、嫌な深みに不快を響かせるのではなく、快く自身の内へと響かせたい。

優しく穏やかにこの身に深く静かに響かせたい。

譬えどんな言葉であったとしても、それを不快にするのも快くするのも、響かせる自分次第。

きっとそうなのだ。



ところで液晶画面上にしろ紙面上にしろ、そこに書かれただけの言葉たちは音を発しない。

音が無いと、その言葉の温度というか空気というか感情のようなものが解らないことがある。

心を音に現して言うを聲と謂うのだから、

心を綴った言葉たちも音読するのが本当は良いのかな、なんてことをふと想い、

例えば自分で書いたこのblogを推敲する時であったり、

小説や雑誌のコラムだったりを聲を出して読んでみることがある。

眼から読むだけではなく、耳からも読むことで、届き方、響き方が変わってみたり、

意外な氣付きがあったりする。

そしてどういう聲で読むのか、どのくらいの速度で読むのか、どれが似合っているのか、

そんなことまで考えてみたり。

何と謂うか、そうすることで更に自由になれる、そんな氣がするのだ。

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写真に言葉は要らないと考えていた時期がある。

言葉で語れるのであればそもそも写真は不要なのでは無いか、そうでは無いから写真が。

ほんの一時期とは謂え、そんな風に考えていた。

ある時、左脳と右脳と、言葉と映像と、それぞれ司る場所が違うから両立するという話と、

写真家は人一倍観察力があるのだから、そこで観たものを言葉にするのは得意な筈だという話を、

それぞれ同じ時期に別の機会で聞くことがあって。

それから改めて言葉と謂うものについて、

また言葉にすることについて、色々と考えるようになった。

何氣なく動き動かす手足の様にしなやかで体温を持った言葉と謂うのが理想。

容易いことでは無いだろうけれど、そういう想いで綴っていきたい。

これからもずっと。
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2016.01.02

beyond

心に嘘は付けないと謂う言葉を時々目にする。

厳しいかも知れないけれど、行動の規範をいつも心に依っていては、

いつまで経っても辿り着くべき場所には着くことは出来ない。

時々刻々と触れる些細なこと、縁に依って、心はいつも揺れ動く。

そのこと自体は決して悪いことではなくて。

ただその心を己の行動の規範とすることは決して正しいとは言えない。

とかく人は内側から外側へ、心を行動へと思い込みがちで。

全てが万事上手くいっている時は、心で行動への力を補うこともあるかも知れない。

けれど、そうではない時は、心に依らないこと。

揺れ動く心に根差した視点で本当の未来なんて何一つ見えないのだから。

何よりも先ず外側から内側へ。

然るべき行動を選び起こすこと。

踏み出すべき方向へと一歩ずつ進むこと。

行動に心はちゃんとついてくる。

そこに氣付け無いと、同じことを繰り返す。

時間を掛けて何度も何度も巡り続ける。

何故か。

ただ単に勇氣が無いのだ。

そして誤解しているのは、強い心を持つことで勇氣が生まれると思っていること。

そうではない。

心が強かろうが弱かろうが幼かろうが、心に一切依ること無く、

恩や縁に応える行動を、それに対して慈悲の心を抱き、ただ黙って選べばいい。

結果それが勇氣になるのだから。


でも人は弱いから、される時はされるが侭で

自身にとってよいと思われる兆しが見えると、それが正しい一歩だと信じ、

恩を忘れて楽な方へと逃げ出してしまう。

そして恩は感じてると謂う言葉こそ放てど、選ばない言い訳と共に心に従い離れて往く。

そしてまた時間を掛けて繰り返す。

ある意味それは仕方が無いことかも知れない。

命が抱えた課題と謂うものは、そうは容易く乗り越えられるものでは無いのだと。

業が深ければ深い程、氣付きも掛かるのだろう。

そして氣付けること、其れ自体がもしかしたら得難いことなのかも知れない。

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例えば誰かがそうして乗り越えられない侭

巡り巡って自分の前に舞い戻ってきたとして、

其れ見た事かと突き放すのか。

それとも一先ず黙って受け止めるのか。

自分はどちらを選ぶのだろう。

最近そんなことをふと思った。



どこまで強くなればいいのだろうかと思うこともあるけれど

強くなることを恐れることはないのだな。

氣持ちも心も次の瞬間にはどんどん変わっていくものだけれど、

相手や環境はどう在ろうと自身の根本は変わらずに在りたい。



優しさの「優」という文字は、

誰かを失った悲しみに憂う人にただ寄り添い、自身の悲しみとして共にいる人だと聞いたことがある。

であるならば、相手の隣に立ち其れら全てを吸収してしまえるくらいの強さを持ちたい。

馬鹿げた理想かも知れないし、そもそもそこまで背負い込む必要は無いのかも知れないけれど

少なくとも見捨てるような人には成りたく無い。

どうせ持つならそのくらいの強い優しさを持っていたい。

勿論、ただ受け入れるだけのことが本当の優しさではないけれど。

自分が苦しく辛い時でも、変わることなく人には優しく在りたい。

そう想い、そう願う。



よく時が解決してくれると言うが、実際はそうではなくて。

時間をかけて自分自身が解決するのだよ。

そしてその時間は短ければ短い程、早ければ早い程良い。

自分は駄目だと落ち込んでいる程、人生は長く無いのだから。
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