BLOG
about daily life , just about photograph. 日常のこと。つまり写真のこと。


2016.01.05

letter

他者に向けて放つ程の言葉を僕は持ち合せてはいないから

自分に向けての言葉を綴る。

自分に向けて綴った言葉がもしも誰かに触れたり届いたら

多分それはその人への言葉でも在るのかも知れない。


この身から外へと放たれたものは、譬え自身に向けたものであっても、きっと自由なのだ。

blog_yui_2015.jpg

勿論それは逆も然り。

自分に向けられた言葉では無くても、何かを重ね自分に向けられたと感じてみたり思ってみたり。

人と謂うのは勝手なものだから、好意的に受け取ってみたり、根拠の無い敵意を抱いてみたり。

でもどうせなら、嫌な深みに不快を響かせるのではなく、快く自身の内へと響かせたい。

優しく穏やかにこの身に深く静かに響かせたい。

譬えどんな言葉であったとしても、それを不快にするのも快くするのも、響かせる自分次第。

きっとそうなのだ。



ところで液晶画面上にしろ紙面上にしろ、そこに書かれただけの言葉たちは音を発しない。

音が無いと、その言葉の温度というか空気というか感情のようなものが解らないことがある。

心を音に現して言うを聲と謂うのだから、

心を綴った言葉たちも音読するのが本当は良いのかな、なんてことをふと想い、

例えば自分で書いたこのblogを推敲する時であったり、

小説や雑誌のコラムだったりを聲を出して読んでみることがある。

眼から読むだけではなく、耳からも読むことで、届き方、響き方が変わってみたり、

意外な氣付きがあったりする。

そしてどういう聲で読むのか、どのくらいの速度で読むのか、どれが似合っているのか、

そんなことまで考えてみたり。

何と謂うか、そうすることで更に自由になれる、そんな氣がするのだ。

blog_yu_2015.jpg

写真に言葉は要らないと考えていた時期がある。

言葉で語れるのであればそもそも写真は不要なのでは無いか、そうでは無いから写真が。

ほんの一時期とは謂え、そんな風に考えていた。

ある時、左脳と右脳と、言葉と映像と、それぞれ司る場所が違うから両立するという話と、

写真家は人一倍観察力があるのだから、そこで観たものを言葉にするのは得意な筈だという話を、

それぞれ同じ時期に別の機会で聞くことがあって。

それから改めて言葉と謂うものについて、

また言葉にすることについて、色々と考えるようになった。

何氣なく動き動かす手足の様にしなやかで体温を持った言葉と謂うのが理想。

容易いことでは無いだろうけれど、そういう想いで綴っていきたい。

これからもずっと。
【miscellaneousの最新記事】
posted by GO at 00:00 | miscellaneous