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about daily life , just about photograph. 日常のこと。つまり写真のこと。


2015.11.26

trust

甘えられるのであれば、ただ黙って甘えればいい。

そうして癒され救われるのであれば、同時に相手も癒され救われているものだから。

甘えられる時に甘えることは弱いことでも悪いことでも無くて。

寄せては返す波のように、とても自然なこと。

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例えば何か事を為す上で、何を信じているか、そこを尊敬出来るか、し合えるか。

為そうとする事柄以前に、そういった部分の方が実は大切だったりするのかも知れない。


遠回りしなければ見えない景色もある。

その道程もその景色も大切ではあるけれど、もしも気付きがあるのなら、

思い切って道を変えることが大切で。

それは早いに越した事は無いのだな。


自分の一歩外側から自分を見る目を持つこと。

自身に寄り添い見てくれる目を一人でいいから持つこと。

一生懸命であればある程、人と謂うものは近視眼的になるものだから。



本当の事を伝えようとする時、嫌われる覚悟が必要な時がある。

「本当」が本当であればある程、鋭い矢の様に深く刺さり、心に痛みを伴うものだから。

そしてそれを放つ側の心にも同様の、時としてそれ以上の傷を刻むこともある。

何でこの矢が痛むのか。

何で怒りを覚えるのか。

その理由に気付くことが出来た時、

その痛みや怒りがいつしか自身の背を押す原動力になっていることを知る。

そして知ることが出来た時に、その矢を放った者が、果たしてまだそこに居るのか、居られているのか。


手が届く内に、取り敢えずでもいいから、離れぬように、しっかり掴んでおくことが大切で。

得てして「本当」が伝わること、「本当」を理解すること、それらには時差があるものだから。

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心の中の一番踏み入られたくない「場所」に、土足でずかずか入り込んで来るような人が、

本当に助けが必要な時、誰よりも助けになる相手だ、というのは、本当かも知れない。

本当に助けが必要な時に、それを求める手を挙げる余裕なんて無いのだから。
posted by GO at 00:00 | memorandum

2015.11.22

deep

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2015年10月13日から31日にかけて、

原宿にあるCLUB PETUという場所で約2年半振りに写真展を開催した。

その2年半前の写真展の頃から既に調子は崩れ始めていたのだが、

積もり積もったストレスが噴出したのか、すっかり身体を壊してしまい

思うように活動し切れずに、という期間が近年ちょっと続いてしまっていた。

そんな中にあって、時折この会場のオーナーである方から励ましの言葉を頂いていたのだが、

9月に入るかどうかといった頃だろうか、

「GOくん、新しく出来たギャラリーで、10月の一ヶ月間、写真展をやってみたら?」

とお声掛けを頂いた。

正直出来るのかという不安もあったのだけれど、

ご挨拶がてら、今年の春に完成したばかりだという会場を見に伺って、

この空間がとても気に入ってしまった。

ただ10月の頭からは準備期間が短過ぎるかとも思い、少し時間を頂戴したいとお願いし、

10月13日、ちょうど新月の日でもあるし、何となく縁起も良いかなと

この日をスタートに、ということで開催させて頂くこととなった。

見せる為、というよりは、自身を再発見し取り戻す為といった感じの写真展として。

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ダンスにとっての写真とは

上演された、

という過去の事実を遺す為の記録物としてではなく、

上演後に生まれ、其処から始まる表現というものもあるのではないか (写真展ステートメントより抜粋)


踊りという、動きを写し取るには明らかに不向きな静止画しか遺せない写真というもので

踊りを撮るということは、果たしてどういう事なのか

多分これは一生掛けて向き合わないといけない問題なのだと思う。


"paralyzed deep" と題した今回の展示、敢えてその言葉の意味は語らずにおくが、

踊りの中に確かに存在する踊りと踊りの狭間にあるような浮遊した時間のようなもの、

若しくは長い時間眺めていないと見えてこないような深みにあるようなもの、

写真として静止しているにも関わらず動き出すのではないかというような感覚的なもの、

そんなことを考えながらセレクトした18点で構成してみた。

まぁ単に自宅にあった額の数が18点だったからという理由でもあるのだけれど、

後々、今回の会場構成にはぴったりの数だったのではと思った。


深い深いところにいたからこそ、見える微かな光。

様々な事が、必要不要に関わらず溢れまくり、色々な感覚が麻痺しているこの世界にあって、

本当の光を捉えるということ。

小事が大事と言う言葉もあるが

一が万の母であるように

真実の始まりはいつも気付くか気付かないかの小さな小さな粒子のようなものだから。

それを溢れ流し去ってしまうことなく、しっかり見つめ、優しく包み込み、大切に育むこと。


ただ見ているのか。

それとも見えているのか。

同じ眼であっても、その差はとてつもなく大きいのだ。


真実は眼に見えないという言葉もある。

例えば「優しさ」を形に現すことが出来たなら、どんなにか容易く想いを伝えられるだろう。

だけれど残念ながらそういった真実は眼に見えない。

顔に付いているだけの眼では。


急遽の開催で満足に告知も出来ず始まった写真展ではあったけれど、

思いの外、多くの方々にご覧頂くことが出来、本当に皆様に感謝という言葉以外に無い。

反面、のんびり開催のつもりが、会場へ度々出向くこととなり、

最後迄のペース配分について反省すべき点が多々となってしまったことは、今後の課題かな。


自身の作品を、こうして額装し、ちゃんと「写真」として一点一点並べているのを眺めながら、

あぁ、自分は写真が、そしてダンスが好きなのだなぁと、改めて実感した。

心の深いところから、じわっと滲み出るような感覚で。


そして、そんな「眼」には見えない感覚的なものを、僕は写真として撮りたいのかもしれない。

余計なことは何も問わず、何も聞かず

優しく手を差し伸べて、壊れないよう、その周りに纏っている空気ごと

ただ黙ってそっと包み込みたいだけなのかもしれない。

ふとそんなことを思った。
posted by GO at 00:00 | Diary

2015.11.20

do

誰しも何かしら強い想いというものがあって。

プラスに転じれば、それは強固な意思となり、事を成す原動力となる。

マイナスに転じれば、頑固さとして現れ、執着となって事を成すを妨げる。

解っているつもりで選べないのは、ただ単純に選ぶことを拒否しているだけで。

人生とは思っている程長くは無いのだから。

そんなところで立ち止まっている余裕など無い。


組織だったり、グループだったり、何かしら集団の中にあって、

思想、習慣、信仰、文化、その他諸々、共有・共存し、また尊敬し合えるのであれば、

そこでの数が助けとなり力になるだろう。

けれどそうで無いのであれば、とりあえずでも飛び出して、自分で一から築き上げればいい。

出来るか出来ないかを思い悩む必要は無い。

今の自分に力が有ろうが無かろうが、

一体自分は何をしたいのか、そこと向き合うところから始めればいい。

勿論容易い事ではないし、苦難や、時には苦痛も伴うかも知れない。

けれどもやらねばならない事はやるしかない。

命を使うと書いて使命とはよく言ったもので、時々刻々と命の時は流れ過ぎているのだから。

躊躇している時間など無いのだ。

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人生の転機には、会うべくして会う人というのがいる。

その時は大抵自覚も無く会うのだけれど、

例えばその会話の中であったり、ふと振り返った時に、

あぁ、確かにそうなのだなという気付きが間違い無く在る。

肝心な事はそれからで、

その気付きを生かすのか、

それとも、そうだった、で終わらせてしまうのか。


どんなに速いランナーでも、皆と同じ距離を走らなければゴールには辿り着けない事と同様で、

踏み出し始めた歩みをどうするのか、

歩きながら考えたっていい。

速かろうが遅かろうが、それは問題では無い。

歩まぬことには、考えも妄想と消えてしまう。


つまりは、ただ単純に、やる。

それだけなのだ。
posted by GO at 00:00 | memorandum